オッティリア・アーデルボリ、スウェーデン絵本の黎明期に活躍した絵本作家

スウェーデン絵本黎明期を支えた「Ottilia Adelborgオッティリア・アーデルボリ

スウェーデンで有名な絵本作家として「Elsa Beskowエルサ・ベスコフ」の名前を挙げる人は少なくないと思います。自然を舞台に幻想的なストーリー展開が持ち味のエルサ・ベスコフですが、スウェーデン絵本の黎明期を支え、似た作風を擁したもう一人の女流絵本作家が存在していたのです。彼女の名前は「Ottilia Adelborgオッティリア・アーデルボリ」と言いました。

エルサ・ベスコフの作品の多くが日本語へ翻訳され、出版されているため、ベスコフ作品にはすでに多くのファンがいることと思います。しかし、ベスコフ作品の可愛らしさと美しさを兼ね備えた作風に魅了された方々であれば、きっとオッティリア・アーデルボリの作品も気に入るハズ。その思いと共に、オッティリア・アーデルボリについて簡単に紹介していきます。

左側「Prinsarnes Blomsteralfabetプリンサネス・ブロムステルアルファベート(王子たちの花文字)」と右側「Blomster Siffrorブロムステル・シッフロル(花数字)」

代表作は花や植物をモチーフに描いた2つの作品群

オッティリア・アーデルボリは19世紀末から20世紀に掛けて多くの作品を残した女性挿絵家であり、絵本作家でした。日本で知られているエルサ・ベスコフと重なる時代もありますが、オッティリア・アーデルボリの方が少しだけ先輩というイメージです。

まず、どんな人物であったかの紹介の前に、オッティリア・アーデルボリによる代表作2つについて触れておきます。オッティリア・アーデルボリの名前をご存知の方はそれほど多くはないかもしれませんが、彼女の名前を知らなくてももしかすると知らずに彼女の作品が手元にあったという方もいるかもしれません。

「Prinsarnes Blomsteralfabet」より

Prinsarnes Blomsteralfabetプリンサネス・ブロムステルアルファベート(王子たちの花文字)

1892年に出版された「Prinsarnes Blomsteralfabetプリンサネス・ブロムステルアルファベート(王子たちの花文字)」は、スウェーデンのアルファベット全29文字「A」から「Ö」まで、それぞれのアルファベットを頭文字とした植物を擬人化したイラストとそのイラストに対する詩が綴られた絵本。

「A」から「Ö」までの29文字を順々に並べ、そのアルファベットを頭文字とした実在する植物を当てはめていくという点が実にユニークなところ。「X」のようにスウェーデン語に対応できる植物が存在しないものもありますが、各植物から受けたインスピレーションを擬人化しており、そのキャラクターを描写した詩が添えられています。

19世紀の終わりごろのスウェーデン語で書かれたこともあり、少々古語的な単語が使われていたり文章が詩的であることも相まって、詩の内容を完全に理解することのハードルは高いかもしれません。ちなみに本書のタイトルにある「Prinsarnes」も古語的綴りであり、現在では「Prinsarnas」と綴られることが自然です。

「Prinsarnes Blomsteralfabet」より

Blomster Siffrorブロムステル・シッフロル(花数字)

1894に出版された「Blomster Siffrorブロムステル・シッフロル(花数字)」は、先に紹介した「王子たちの花文字」とほぼ同様のコンセプトですが、こちらはアルファベットではなく「1」から「20」までの数字からのインスピレーションを擬人化したもの。

「王子たちの花文字」が実在の植物名を添えていたのに対し、「花数字」には具体的な植物名は添えられていません。しかし植物に詳しい方が見れば「この花はケシだな」といった具合に、描かれている植物の名前を挙げることができるのかもしれません。

それにしても、数字からのインスピレーションで植物を擬人化していくなんて、かなりの想像力と創造力が注がれた作品だったことでしょう。

オッティリア・アーデルボリ(中央)と姉妹の写真

オッティリア・アーデルボリの生い立ち

オッティリア・アーデルボリは1855年にスウェーデン南部にあるKarlskronaカールスクローナという街で生まれました。父親は絵を描くのが得意で、当時それほど子供向けの絵本が多くない時代ですから、オッティリアとその姉妹によく絵を描いていたそうです。

しかしオッティリアが9歳のころに父親が亡くなったことをきっかけに、一家はストックホルムからほどなく北に位置するUppsalaウプサラという街へ引っ越します。ウプサラでの生活がつまらないと感じていたオッティリアは、絵を描くことで安らぎを得ていました。

絵が上手なことから親戚の一人にストックホルムの美術学校に通うことを勧められます。このことが彼女を絵本作家、挿絵家になることの足掛けとなりました。子供が好きだったオッティリアが、絵本の少ない時代に子供向けに絵を描いたことは自然の流れであったと言えます。

オッティリア・アーデルボリと手工芸教室の生徒たち

オッティリア・アーデルボリとダーラナ地方

オッティリア・アーデルボリが48歳のときに母親が亡くなったことを機にして、姉妹でダーラナ地方のGagnefガーグネフへ移り住みます。この自然豊かな地で、オッティリアはスケッチブックを常に持ち歩き、多くのものをスケッチしました。たとえば夏には家屋や自然を、冬には子供たちがスキーに乗る様子などです。

それにオッティリアは手工芸にも興味を持っていました。しかしすでにこの時代に失われつつあった手工芸に対し、その知識を次の世代に受け継ごうと少女たちに対してレース編み教室を開きました。

1936年に80歳で亡くなったオッティリアは、そのままガーグネフに埋葬されました。そしてこの地には現在「Ottilia Adelborgmuseetオッティリア・アーデルボリミュセーエット(オッティリア・アーデルボリ美術館)」が建てられており、彼女の多くの作品が収蔵されています。

リッラ・カッテンの絵本、雑貨、あと雑用を担当。本を読むことよりも、大量に並んだ背表紙や古い本の雰囲気が好き。つまり、あんまり本は読みません。葛飾出身の日本人。インスタグラムは「@lillakattenpaper
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