スウェーデンの絵本作家「エルサ・ベスコフ(Elsa Beskow)」のデビューまで

1897年に絵本作家デビュー、19世紀から活躍した「エルサ・ベスコフ」

現在の日本において、児童文学や絵本の分野でスウェーデンを代表する作家として挙げられる一人が「エルサ・ベスコフ(Elsa Beskow)」です。彼女のほとんどの絵本作品、文学作品の一部までもが日本語訳されています。もしかするとスウェーデン出身の作家だという認識を持たずに彼女の作品に接したことがある方もいるかもしれません。

1874年に生まれた彼女が、自身の夢であった絵本作家としてデビューしたのは1897年のことでした。現在まで変わらず愛され続けている彼女の作品が生まれる源泉となった生い立ちから、絵本作家になってからの私生活までを簡単に紹介していきます。

エルサ・ベスコフのスウェーデン語絵本を販売しています

リッラ・カッテンのONLINE STOREでは、エルサ・ベスコフによるスウェーデン語の絵本を数多く販売しています。実店舗に置いていない本もありますので、もし実物を手に取ってご覧になりたい場合にはお問合せください。

「エルサ・ベスコフ(Elsa Beskow)」販売ページ

左側「父、Berndt Maartman(バーント・マアルトマン)」と右側「母、Augusta(アウグスタ)」

生まれた家庭と、父親の他界

エルサ・ベスコフは、ノルウェー出身の実業家である父、Berndt Maartman(バーント・マアルトマン)と、教師である母Augusta(アウグスタ)の間に長女エルサ・マアルトマンとして生まれました。つまり、結婚前の姓はベスコフではなく、マアルトマンでした。そして、兄のハンス、そして4人の妹がいました。

エルサ・ベスコフは幼いころから、いずれは絵本を描きたいという志を抱いていました。兄のハンスと一緒に絵を描き、自分で考えた物語を彼に聞かせて遊んだりもしました。エルサ・ベスコフ自身による当時の振り返りでは、「ハンスの方が絵が上手かった。でも、彼が描く騎士はみんな脚が短かったけれども」とも語っていたようです。

しかし、エルサが生まれた翌年1875年に父親の会社は倒産、さらに1889年に父親は家族を残して肺炎で亡くなってしまいました。15歳のときです。

「Tant Grön, Tant Brun, Tant Gredelin」より

苦しい家計による、親族との同居

大黒柱を失った一家は家計を立てるため、母親アウグスタの姉妹Amalia(アマリア)とBerta(ベルタ)、そして弟のEugène(ウジェーヌ)が一緒に暮らすことになりました。このおばとおじの存在は、後に彼女の唯一のシリーズ作品でもある「みどりおばさん、ちゃいろおばさん、むらさきおばさん」に登場する3人のおばさんと「あおおじさん」のモデルになったとされています。

母親のおじやおばとの暮らしにおける家計は苦しいものでした。兄のハンスは学業を断念して製造業に携わることで家計を支えることになり、姉妹も進学ではなく職業学校へ通うことになりました。

家計は苦しいものの、姉妹のうち長女エルサと次女マリーンの2人は芸術の素質を見出され、芸術分野も学べる技術学校Tekniska skolanテクニースカ・スコーラン(現在のKonstfackコンストファック)へ通わせてもらえることになったのです。

しかしエルサの本当の目標は真の芸術家になること。さらに芸術の分野で進学をしたかったものの、家庭環境の貧しさがそれを許さず、その夢は諦めて美術の先生になるという選択をせざるを得ませんでした。

技術学校に通って3年間が経った頃、エルサはかつて自身や姉妹たちが通っていた学校でもあるWhitlockska skolanヴィートロックスカ・スコーランで、絵画の教師としての職を得ることができました。

ナタナエル・ベスコフとエルサ・マアルトマン(当時)

将来の夫となるナタナエル・ベスコフとの出会い

エルサにとって技術学校の最後の年となる1892年、美術学校に通う若い男子生徒から、絵のモデルになってくれるようにお願いをされました。モデルを依頼したのは後の結婚相手となるナタナエル・ベスコフでした。

モデルの依頼を受けることに対して家族の反対があるなか、エルサは最終的にこの依頼を受けることにしました。そして後日、ナタナエルからプロポーズの手紙が届いたのです。突然の申し出に戸惑っていたエルサでしたが、時間を掛けてナタナエルと打ち解けるようになっていきました。

エルサ・マアルトマンによる初めてのイラスト仕事

イラストレーターとしてデビューしたエルサ・マアルトマン

ナタナエル・ベスコフとの出会いと並行して、エルサは自身のイラストレーターとしての仕事の幅を広げるべく積極的に自分を売り込むことにしました。

1894年の秋にエルサは、毎年クリスマスの時期に発行される子供向け雑誌「Jultomtenユールトムテン(スウェーデン語でサンタクロースの意味)」の編集部にコンタクトを取り、仕事をもらうことに成功します。

スウェーデン国内の多くの家庭に届くクリスマス雑誌で仕事を得ることは、当時の多くの芸術家にとっての収入の一つであり、同時に知名度を高める大事なチャンスでもありました。

こうして1894年に発行されたユールトムテン誌において、エルサの担当した楽譜付きの小さな挿絵が掲載されました。これがエルサにとって初めてのイラストレーターとしての仕事となりました。この年に限らず、エルサは引き続きユールトムテン誌での仕事をしばらく続けていくことになりました。

このころの挿絵に添えられるクレジットは、エルサ・マアルトマンを示す「E.M.」であり、ナタナエルとの結婚までの間の仕事にはこのイニシャルが使われています。

1897年に発表された「Sagan om den lilla lilla gumman」

エルサ・ベスコフ、初めての絵本作品

1897年、交際を続けていたエルサ・マアルトマンとナタナエル・ベスコフは結婚し、ここで初めてエルサ・ベスコフという名前が誕生します。そしてちょうど同じ年、エルサ・ベスコフにとって初めての絵本作品が出版されました。それが日本語にも翻訳されている「Sagan om den lilla lilla gummanサーガン・オム・デン・リッラ・リッラ・グッマン(ちいさなちいさなおばあちゃん)」でした。

この物語はエルサが幼少期に祖母から聴かされていた押韻詩を基にしたもの。そして挿絵は「現代絵本の父」とも呼ばれたイギリスのウォルター・クレインの影響を受けており、ストックホルムで開催されたウォルター・クレイン作品の回顧展に刺激を受けたとされています。

アール・ヌーヴォーを感じさせる装飾や、文字まで手描きによって仕上げることによって全体的な世界観の統一を図るなど、エルサがクレインに影響された様子が随所に見られるデビュー作でした。

ここまでがエルサ・ベスコフの生まれから絵本作家デビューまで。この後、エルサとナタナエルのあいだには6人の息子たちが生まれ、彼らに囲まれながら母として、そして絵本作家として自身の絵本製作も精力的に続けていくことになります。

エルサ・ベスコフのスウェーデン語絵本を販売しています

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リッラ・カッテンの絵本、雑貨、あと雑用を担当。本を読むことよりも、大量に並んだ背表紙や古い本の雰囲気が好き。つまり、あんまり本は読みません。葛飾出身の日本人。インスタグラムは「@lillakattenpaper
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